昭和44年06月18日 月次祭
祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かる道と。この方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かるとこう言われる。その話がだから聞いただけでは、それがやはり血や肉になるからおかげを受けるのであるね。どうぞその話が血肉になることを願いとしなければならん。私がなかなかお話しが上手ではございませんから、というて稽古してから今日はあれを話そう、これを話そうというふうに、原稿を作って話をするのではないのです。
ですからなかなか難しい。だから頂かれる方も聞かれる方も、なかなか骨が折れるだろうと思う。その中から血になる話肉になる話を聞かなければならんのでございますから。そこで私はこれは何時もの事ですが、例えば御祈念なら御祈念の中で、最後にただいま親先生の御理解を頂きますと言われてから、初めて神様に何を話させて頂こうかと。又お話しさせて頂く事がどうぞお参りをしておる、信者一人ひとりの上に血になり肉になり致しますような、おかげになりますようなお徳の元になりますような。
お話しをさせて下さいというて願うのでございますから。なら皆さんとても同じ事。どうぞあの先生の下手なお話から何か頂きたい。何か血になるもの肉になるもの、それを頂かせて貰わなければおかげにならんね。この方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かるとこういう。その話も聞くと言うのじゃない、話を聞いてそれを自分のものになる。それを自分の血に肉になる。それが生活の在り方の中に現れて来ると。そこにおかげになるとこう言われるのでございますから。
そこのところをですね私も祈るなら皆さんも願って、お話しを伝えお話しを頂くという事になって来なければならんのです。そこで問題はお話を頂いておるうちに、只今申しますように、それこそ自分でも何を話し出すやら分からないで、お話しをしておって後でテープを頂いてから、私もまた改めて頂く。あぁ成る程そうだなぁそうだなぁと。これは確かに大坪総一郎の頭の中から出ておるのじゃない。大坪総一郎が話しておるのではない、神様がそこに氏子可愛いという一念が、氏子助けたいばっかりの思いをもって。
その思いが話の隅々にまでみなぎっておる事を思うのです。私は今夏期信行が今日で三日間これはもう去年から恒例になっておりますから、一生懸命もうここいっぱいの方達が、もうそれこそ何と言うんでしょうかね、熱気が渦巻いているような勢いで、皆さんが大祓をあげられます。もう合楽の村中に響き渡るようです。マイクですから。と言う様なそのう勢いのこもった御祈念が二十五分間なされます。そこ後私が五分間あまり御理解を説くというより、むしろ読むというでしょうか。
私は皆さんが一生懸命御祈念をなさっておる間に、今日頂くというところからヒントを得て、あの塗板に毎日掲げられますような、御理解が出て来るのでございます。例えば今朝の御理解を、信心は本心の玉を磨くものぞやということを、どれくらい頂いたか分かりません。けれども又新たな思いです。それはちょうど三度三度の御食事がです、やはり三度三度頂きましても美味しい様に、それが新たなものとして頂けるというところに、御理解の値打ちがあるのです。で皆さんもそうでしょうがね。
本心の玉を磨くということはね、人間誰しもが頂いておるものであると。心の中にあるこれは人間である以上、誰しもが頂いておる神様の心、神の神性の信性というものがです、私共の心の中にあるのですけれども、それが我情我欲のために光を無くしてしまっておる。誰しもその気になれば、誰しも自分の心の中にある、心の玉が光を放って来る様になる。だからその光を放って来る迄に磨かなければならんのであり、改まらなければならんのであり、しかもその光を放つところには。
光のあるところに暗いものが消えてなくなるように、おかげをうけると今日の御理解にありますよね。ここなんかは素晴らしい。成る程信心とは本心の玉を磨くものである。しかも本心の玉を磨くということは、心を磨くということなんですから、心を一生懸命磨いてです、自分達の汚い所を改まらなければならないところを、気ずかせてもろうて磨かせて頂きよると、誰しもがそこから放てくる光がある。その光が有り難い。
ならどげんして磨きますかというのではない、今日の御理解の中にありますよう、磨く材料は自分達の周辺に、自分の身近な所にもういくらでも転がっておるというのであるから、それをいわば払いのけ蹴飛ばしてから通っておるのが、私達の生き方ではないだろうか。磨く材料を蹴散らし蹴散らしして歩いておると言った様な事では、いつまで経っても本心の玉が、光を放つようなにはならないのだ。その光の前には暗いものがなくなるということは、難儀がなくなるということなんです。
そういうおかげをお互いが目指してもらうのです。ですから私共がこうやってお参りさせて頂いて、本気でねお祭りそして御理解、その御教えを頂かせてもろうて、話を聞いて助かるのだから、話を聞くというだけではなくて、その聞いた話がです、聞いた話が血に肉にならなければならない。ただ美味しかっただけではいけん。それが血肉になるような頂き方、そこでそんならどう言う様な頂き方をしたら、それがいよいよ血に肉になっていくかということなんです。
何時もお気づきであろうと思うけれども、私が最近の月次祭のお話しは、もう必ずこのお祭りの前に前講を誰かがなさいます。その前講が何時の場合でもテーマになっておるということですね。今日は秋永先生がお話しになりました。そのお話しを頂かせてもろうておってです、例えば私が御結界に座っておってから終わった時に手を叩くけれども、それは私がね、私が頂いたそのお話しの中からそれだ、そこだというものを頂いた時にです、手を叩かなければおられないものが生まれてくる。
皆さんも今日お話しを頂いてから、あぁ素晴らしいさすがは秋永先生だと思われただろうと思う。その中でもそこだそこだと思う所があったに違いない。いわゆる実感なのである。その実感がねその実感が育てられていくということなんです信心とは。それが血になるのである。それが肉になるのである。あぁ今日食べたあれは美味しかったと、どうぞ神様今日頂いたあの食べ物がです、どうぞ血になりますように肉になりますようにという祈りがいるよういに。
はぁそれそこだそれが私に欠けておったと、言った様なものを頂いた時にです、それが思わず手を叩かなければおられんのであり、しかもそれがですねそれが私のものになる、いわゆる私の血や肉になっていくということをです、願わなければならない。そこでお話しをさせて頂く者、またはお話しを頂く者の願いというかね、姿勢が一つでなからなければならない。だからお話しが上手に出来るということだけじゃない。そのお話しの中に一言でもそうだと実感して感じた事。
私は最近月次祭のお話しは、前講でお話しされる方のお話しの中から、そうですそこですよと私が実感するとろころを、テーマにして大体お話しをしておる積りでございます。そこからならいわば三十分あまりのお話しが、何時も頂けておる訳なんです。今日も先生がお話ししておられました。私は本当に流石に秋永先生だなぁと思うた。私は今年五十になりますと。信行期間が五十日間、今度の五十日間の信行期間には、どういう信心の目指しをもって、合楽通いをしようかと考えた時にです。
自分が五十年間の間に犯して来たお粗末御無礼、天地に対するところの、めぐりの元と言った様なものがです、もし一日に一年間の御粗末、御無礼を一日でお詫びが出来るならば、叶うならばです。これはそれこそみやすい事だと考えさせて頂いたら、朝参りして帰ってからそして又昼に出て来るということは、大変難しい事難儀な事の様にあるけれども、それが有り難いいや楽しいのだというておられます。
一日いちじつ例えばあの信行に参加させてもらうということが、私の一年間の罪が御粗末御無礼が消滅するならば、それで許して頂けるならば、とてもこれ位の事じゃ足らんごたるという実感が中にはある訳です。私は素晴らしいと思う。全ての事に焦点というか目指しというものがなからなければなりません。ただ口にはとにかく信心の稽古に通うて来る。信心の稽古に通うて来るわしと言うておっても、その信心の稽古とても今日は算数、今日は国語と言った様にですね、一つの時間時間に焦点がありますように。
その焦点が私はなからなければ。しかも折角の焦点であるならばね、小さい事ではない、本当に大きな願いであり、また大きなお詫びであり、大きなおかげの事を願わせてもらわなければならんと思う。福岡から例えばその三十分間、たった三十分間足らずのもう御祈念会に参加する。それが私が一年間御粗末御無礼をしておる、その御粗末御無礼のお詫びの事になるならば、それがめぐりのお取り払いになるならば、もうとてもこんくらいの事じゃまぁだ足らん様な思いすらがする。
そこに信心の生き生きとした喜びと楽しみが生まれて来ると私は思う。そうですよね。私共もそうです。願いというものを私の願い、私の願いというものはもうそれこそ皆さんにお話ししたら、ばかじゃなかろうかと思いなさるごたるじゃろうと思う。もうあぁたこがしこおかげ頂きなさったけん、これから先はもういるめもんちいうことは無か。まぁだまだこんくらいの事じゃこんくらいの事じゃならん、それはね私の我情でもなからなければ我欲でもない。
ということはまだまだこの世の中には、どれくらい難儀な氏子があるか分からないということなんです。その難儀な氏子がね、それこそ一人でも二人でも多く助かっていくということに、私の願いがかけてある。この頃から大阪から若先生のお友達が来た。ここに来てからまぁ想像以上であったから、まぁある意味でびっくりした。大阪の現在日本一と言われる程しの大きな教会が、大阪にはございます幾つもある。中にも泉尾教会。今日もちょうど昼頃あちらから、ここの井上さんの娘さんが大阪に縁になっております。
その近所に住まいしておりますから、大阪の泉尾教会におかげ頂いて、毎月あちらの月刊である雑誌を送ってくれる。私はその月刊をパラパラめくらせて頂いて、幼稚だなぁと。これは私の慢心だろうかと思う位に、一番の感じがそうであった。ところがそこはそれこそこの頃から御大祭ありましたがですねぇ、やっぱり何万からの信者が集まる。その大広前はここの何倍あるやら分からん位、に大きな大広前を今度建立された。
そこの三宅という先生が、大阪のその先生のいわば取り巻きの先生の、その明渡という先生が来ておられました。その明渡先生のお父さんも非常に懇意である。ところがねそのうまぁ明渡先生は、まぁここが皆んなにそういうふうに、まぁ期待をかけられておると言った様な意味の誉め言葉で言われたのでございましょう。泉尾の先生が仰った。合楽は泉尾の教会に次ぐ大教会だち。になる素養を持っておるとこう言う。いつまでもそげん泉尾の次になるとばっかり言いよると私は思うた。
そして私はそのうまぁ月々の、信心の結集とでも思われるような、そこのパンフレットを見せて頂いてです。パラパラめくらせて頂いてから、幼稚だなぁと私は思うたんです本当に。今現在合楽で頂いておる御教えなんかというものは、あそこが例えば中学校なら、合楽は大学校でしょうね。またこれば聞いたらほんに馬鹿な事いいよんなさると言われる。しかしこれは有り難いと思うですね。ならあちらの先生だってそうです。そりゃ慢心じゃないです。
やはり私がさっきから申しますように、人が助かる事のためならば、だから自分は絶対安楽死はせんと断言しておられる。自分は必ずそれこそ苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて、そげんして死ぬるじゃろうと言うておられます。私はそれと反対。あぁ有り難い勿体無いと言うて死のうと思うとる。その観点が違うと致しましても、それは確かにたいした教会でございましょうけれども、ただ今合楽で受けておる御理解が皆さんの、いわば信心の上にです、信心向上のためのそれが糧になり。
信心の血肉になるならば、それっこそ成る程日本一を目指すと言う事も、私はね過言ではないと私は確信するのです。しかしどういうそれが素晴らしいお話しでありましてもです、どういう素晴らしい血肉になるものでありましても、頂きようが悪ければ血にも肉にもならないのでございます。そこで皆んなが皆んなというのじゃない。私共がお話しを頂いて、それは頂いておる中には程度の低い人もありゃあ、程度の高い人もあるんです。それによって、例えば今度の五十日間の信行期間に。
五十日間の間にこの事をいっちょうお願いしておかげを頂かんならんから、今度は頑張り抜かしてもらおう、今度の五十日間はひとつの親子一家中お参ろじゃんのと言う風に、その願いを立ててお参りをしている方もあるのです。それがいけんということじゃあない。ところが秋永先生なんかはそうじゃない。五十年間の御粗末御無礼が、めぐりの元になっておるものがです、一年の御粗末を一日にでもお詫びを叶えて頂こう。お礼を聞き届けて頂こうという意欲に燃えての五十日間でありたいと願ごうておられる。
そのように受ける方によっては変わって来るのです。一杯の鯉が泳いでおるから、そのう上から手を叩く。そうすると鯉がそのうこう餌を貰えるかと思って集まって来る。ところが予期しないその鳥が上から飛んで来た。餌をもらおうと思うてその鳥が呼んで来た。茶店のおやじさんはこりゃお茶を注文されよるばいのと思って、はい何ですかと言ってやって来たね。ひとつ柏手ひとつでも鯉が集まってくる、鳥が集まって来る、又は茶店のおやじさんが集まって来ると言う様に、それは違ってもいいのだ。
皆んなに秋永先生のような信心を頂かならんでもいいのだけれども、お互いここにこうやって信心させて頂いて、信心のいや教えというものを頂いて、はぁそうだな。そこなら自分でも頂けるな出来るなと実感したところをです、実感しただけではないそれが血肉になるように願い。それを育てていくということが信心なのだ。二、三日前に久富先生の所のお父さんとお母さんの御霊様の御祭りがありました。子供達じゃない孫達ですね、孫達が全部揃うてお参りが出来ました。
一人一人がお供え物からもう万事万端の上に、そのうまぁ私に言わせるとまぁこげんするとおやじが喜ぶけんちゅう様な感じなんです。あれが御霊様が喜ばれる事のために、あれがあのう孫達が結集されるとなら、日頃もうちょっと信心が出来にゃならん、けれども日頃信心が出来んのだから、せめておやじが喜ぶじゃろうけんで、ちにおばしゃんが喜ばっしゃるふうじゃ、もうおやじが喜ぶ為にあのお祭りを仕えたような感じのお祭りであった。それこそ賑々しゅう本当にまぁ形の上では思いを込めたお祭りであった。
私はその事を神様にお届けさせて頂いておりましたらね、「嘘から出た真」ということをを頂いた。段々お祭が進んで霊祭が進んできて、銘々が玉串を上げる頃にはもう真剣そのもの。手を叩いてから玉串を上げよる。私はここから拝ませ頂いてから、有り難いと思うた。さっきから神様からねそのう頂いた「嘘からでた真」とはこれだと思うた。おやじが喜びよろうというのではなくてですね、先祖の御霊の喜びがね孫達一人一人の上に現れておる。またそれが孫達の心の中に感動になって現れておるね。
いわゆる誰だって初めから真まことと言うても、真の出せれる筈はないのだけれども、それは嘘にでも良いからそれを行じてみる。それを行ってみるというところから、それが本当の喜びにいわば嘘の涙が、ありがた涙に変わって来る様なおかげに受けられるけれども。それがそのう瞬時のもの瞬間的なものであってはならない。信心とはその嘘から出た真を、その真をですいよいよ育てていくところに、信心があるのだとこう思う。だから話を聞いただけでは駄目。
それが成る程ね一部でも良いから自分のものになり、血肉にならなければいけない。そこに行があるのでございます。例えば今の夏期修行の場合なんかは、もうそれこそもう唯々一生懸命。今日は皆さんがあぁして廊下に書き出されるのを、皆んな廊下に座って書きよんなさいます。私は書き終わってから、熊谷さんが言うておられる。もう七十幾つのおばあさんですよね。最近ではもうそれこそ一心発起されまして、もう二十年近く合楽に毎朝通うてみえる。朝参りが続けられる。
最近ここ一週間余りはですね、夜の御祈念にもどうぞということになって、夜の御祈念にも、しかも吉井から往復六里の道を通してみえられる。もちろん昼の夏期修行があれば夏期修行に、無論参加しておられる。それが秋永先生ではないけれども、嬉しゅうなり楽しゅうなっての信心、そして家では親先生の御祈念が何時になされるという、その御祈念の時間にはまた欠かさず御祈念なさるとこういう。いわゆる祈りに明けて祈りに暮れる生活が、日々出来ておるわけでございますね。
それがね有り難うなって来る。そげん暇があればよかばってんが、そう言う訳にはいかん。と言う様な事は先程秋永先生の話を聞きよれば分かるでしょう。金光様の信心は暇があるからじゃあない。時間が出来たからじゃない。その人の心次第で出来るんだと。その熊谷さんが言うておられました。もうとにかく若い方達と一緒に大祓をあげさせて頂きよったら、今日喉がほげたごとございました。若い時お謡いの稽古をさせてもろうていた。その時一遍ほげておったが塞がっておった。
それが今日は何かほげたようであります。もうとにかく腹の底からお謡いでも、いわば稽古をしておる時と同じように、大祓が朗々として一生懸命あげられた。一生懸命にあげられたそれが有り難い。そういう御祈念が続けられておる最中にです、久留米の佐田さんが頂いておられる事。一生懸命大祓をあげておられたいうならね、御心眼に頂かれるのに丁度そのう、まぁ普通で言うなら悪魔と言う様なもの、それがあのうそれっこそもう響き渡るような、割れるようなあの大祓がね一つの矢のように。
そのう悪魔のような物の上に、ブスブスのこって行く様な、それでその途端にその苦しみを、お道でいうならそれがめぐりでしょうね、だから表現するなら確かにそうであろうなぁと私は申しました事でした。あの大祓にです例えばめぐりがあっても、どのような例えば悪鬼とでも申しましょうかね、悪魔が例えばついておってもです、自分の心の中についておるその例えば鬼のような心もです、あの大祓のあの一生懸命の大祓を聞かせて頂きよったらです、もうそれこそいたたまらんごとになってしまう。
もう苦しんで苦しんでもだえておるようなところ。そこで佐田さんそれが有り難いばってんから、大祓が済んで御祈念が三十分で済んだ途端に、またそのめぐりがかかんに元気づいたらいかんけん。その後が大事ですよと言いました事です。そのくらいな効果効力が私はあると思うですね私はあの御祈念は。そこで後に頂いとくなら二、三分か五分間頂くところのその御理解というものがです、いわばもう悶えに悶え苦しみ苦しんでおるところの悪鬼とでもいうかめぐりがですね。
それによって退散す様なおかげを頂かしてもらうなところにです、あぁお参りさせて頂いて良かった。今日はこの事に取り組ませて頂くぞと言った様な信心が、そこからなさらなければならない事が分かりますね。お互いひとつ本気でです大きな願いのもとにね、例えば秋永さんの願いなんかはたいした大きな事だと思うですね。五十年間もの例えば天地に対するところの御粗末御無礼を、ここに気づいたということでも大変な事です。信心はせんでもおかげはやってあると仰る。
そういう広大無辺のおかげに気づくところから、信心は始まると二、三日前の御理解に頂いたんですけれどね、そういう広大無辺の神様のおかげの中にね、私共が知らない広大無辺と同じ意味合いにおいてです、どれだけ御粗末御無礼が先祖代々からね、つまり犯されて来ておったか分からないほどしの、例えば御粗末御無礼を、秋永先生の家の上にあるところの御粗末御無礼を、めぐりをです五十日間もですね、ひとつ信行によってお取り払い頂こうと念願する意欲を燃やす、そこにです私は偉大だとこう思うのです。
そこに修行が修行らしくなり、しかもその修行が楽しゅうなるというところまで、高められていっておるのでございます。それは必ず詫びる事はいらん、願いそれは様々であってよかろう。けれどもそれは出来るだけですね、神様のお喜び頂けるようなところの焦点でなからなければならない。であるならばお詫びも良かろう願いも良かろう、お礼も良かろう。こういう大きな願いに向かって、こういう大きな御粗末御無礼のためのお詫びに向かっての信心だから、この位な事はもう当たり前だということになってくる。
私が先程から申しましたように、泉尾の先生のお話しを聞いて、私に言うてくれた若先生がです、泉尾の先生がこげな事言いよりなさったげな、合楽という教会は泉尾の教会に次ぐ大教会だ。馬鹿言えと何が泉尾が日本一かと、まだこれから先見にゃあ分からん。実際心の中にそれがあるんですよ。ですからそういう大きないわば、まぁこれを今教内教外の人達が私の事を聞いたら、合楽の先生はちいと違ごうとるという話だったが、ほんなこつ違ごうとるばいち、言うに違いないです。
本当に誇大妄想。私すら時々思う事があるですから。私は誇大妄想教じゃないだろうかと思う事があるのですから。だから私はこんくらいの事で腹立てよっちゃあばからしかということになるのです。そういう大きな願いをもっておるからこれ位の事でへこたれちゃあならんというものが何時もあるから、何時も本気での御用が出来るのですね。ですから大きな誇大妄想教と言われても良いから、あれは馬鹿じゃなかろうかと思われるくらいの、大きな願いをたててのです信行であらなければならない。
表行でなからなければならない。信心の無論稽古でなからなければならないということになるのでございます。私は今日秋永先生の前講のお話しを聞かせて頂いて、まぁただいま聞いて頂いたようなお話しになりましたけれども、どうぞその中から秋永先生の真似ごとはいらん、一言でも皆さんの、成る程それだなぁと思うものがあるならば、その実感を育てていくということが信心だということをね、ひとつ思うて頂きたいと思うのでございます。
どうぞ。